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● 吉村昭著『虹の翼』 旧版表紙
四ツ谷荒木町といえば飲み屋街で有名。
津守坂通りという道をはさんで三栄湯という銭湯がある。
そこは三栄町になる。
このお風呂屋の脇の狭い道を鍵の手状に後ろの道にぬけると四ツ谷税務署がある。
三栄湯の後ろ、クランク形の路地の脇にあたるところにあったのが航空神社。
もちろん、本格的なものではなく路傍やビルの屋上に設置されているお稲荷さんに似た大きなオモチャみたいな神社である。
なぜ、こんなところに神社がありそれも「航空」神社といったへんてこな名前がついているのだろうと不思議におもっていた。
そのとき、ここは空き地で駐車場になっていた。
もしかしたら、航空関係の出版社でも脇のビルに入っていたのかもしれない。
だが、この近くにある三栄書房は「モーターファン」という雑誌を出していたが、モーター神社はなかったと思う。
この間、日本へいったとき、改めてそこを通ってみたが、航空神社はいまはなかった。
ニ、三十年も昔のことであるから已む得ない。
先日見つけた古本が吉村昭著『虹の翼』。
吉村昭の作品は相当読んでいるつもりであるが、このタイトルは初めてであった。
この文庫本は旧版で字体も小さく読みにくいが、著者の力量だろう一気に読み切ってしまった。
この旧版は「1983年9月25日」とあるからちょうど30年前に発行されたものである。
古さの貫禄でセピア色に変色している。
現在は新版が出ているので、読みやすくなっているはずである。
この小説の主人公は「二宮忠八」といって、日本で最初に飛行器(飛行機ではなく飛行器)の原理を研究した人である。
解説から引用する。
「
軍隊の演習時に、カラスが飛び立つのをじっと観察していると、飛び立つときは両翼をあおるが、やがてそれを止め、両翼を上向きに曲げて滑空していく。
そのとき、羽ばたかなくても上昇できるのは空気の抵抗ゆえだと思いつき、鳥や昆虫の翼面積、仰角度、体重比の観察記録を重ね、ゴム紐のコブの弾力を利用して四枚羽のプロペラ、さらに車輪をとりつけるなどして「鳥型飛行器」の模型を作って実験し、成功する。
明治24年のこの実験は実にライト兄弟が世界初の飛行機を飛ばすことに成功する12年前のことだったのである。
2年後かれは複葉の玉虫型飛行器の模型を作るのだが、人間を乗せるには相応の重量の動力を必要
」
とし、その製作には充分の資金がかかり、彼個人では無理と判断し、軍隊に委ねることにする。
しかし、勤続する軍に三度にわたって飛行器製作の上申書を提出するが、残念ながらすべて蹴られてしまう。
ついに自らが製作するしかないと心に決め、その製作費用を稼ぐために軍隊をやめ実業界へと転身する。
そして、資金をため、実業界から半分身を引いて飛行器製作にとりかかったとき、西欧では同じ原理で飛行機が空を飛び始めていたのである。
後日、二宮忠八はその研究を顕彰されるが、 しかし、飛行機による事故も多く、老いて二宮忠八は飛行機による殉難者の慰霊を思い立ち、自ら神主の資格をとって「飛行神社」を建立する、ことになる。
● 吉村昭著『虹の翼』 あとがき
というのがこの本のあらすじである。
飛行神社
公開日: 2012/12/29
模型といえども世界初の動力飛行機を発明した二宮忠八を祀った神社で、飛行機の安全、航空関係で働く人の安全などを祈って訪れる人も多い。
もともとは四国の八幡浜市で実験や活躍していたが忠八が大阪に移動したため同名の京都八幡市に神社ができる。
ライト兄弟よりも先に飛ばした、二宮忠八(飛行器)
公開日: 2012/07/21
二宮忠八 (1866年-1936年) 陸軍・松山連隊の薬剤手であった二宮忠八。
1891年4月29日 日本初の動力飛行。(カラス型飛行器)。 (高度1m、飛行距離30m) ...次に人の乗れる玉虫型飛行器を考案、
1893年に 設計を完了し試作実験に入る
1894年 日清戦争に出兵。 (独力で作るしかないと決意し軍を除隊)
1898年 大日本製薬㈱に入社し職工として活躍。(条件や資金も貯えられため)
1900年 京都府八幡町にて、完成に向けて努力。
1903年12月 アメリカのライト兄弟が飛行機を完成。 これにより、二宮忠八は、製作を断念。 (ライト兄弟の真似と評価をされるため)
1915年 飛行神社を創建。 (航空安全と航空事業の発展を祈願)
1919年 軍部は二宮忠八の研究を評価。
☆〈後世に広く認知されなかった理由〉
「特許」という形にならなかったのも原因。
☆「飛行器」の名付け親。後、1901年森鴎外が「飛行機」と使用。
(飛行神社HP・二宮忠八飛行館HPや、
古典航空機電脳博物館HPの日本・民間航空の曙 など参考に)
☆飛行神社(京都府八幡市)
飛行機によく使われる金属から、鳥居もジェラルミン製
航空神社に飛行神社、なんとなく似ているが内容はまったくべつのものである。
『
航空神社
http://
www.aero.or.jp/jinjya/jinjya.html
』
さて、航空神社の四ツ谷版を検索してみたのだが、そういうものはなくまるでひっかからなかった。
小さな道端の社ですので、記録もなかなか残っていないでしょう。
そのうち見つかるかもしれないという希望だけは残しておきます。
二宮忠八は愛媛県八幡浜に生まれている。
どこかというと、下の地図で松山の左下、佐田岬半島の付け根にあたる。
その上の大洲は「おはなはん」で有名はところである。
この春、松山・道後温泉にいったのだが、居続けで3泊した。
計画時は別府に飛んでここで遊んで、フェリーで佐田岬にわたり、半島を縦断して大洲から松山・道後温泉にはいることになっており、宿泊も4泊から5泊を予定していた。
だがどうも旅行時の移動というのが苦手で同じところに3泊でおさまってしまった。
その関係でこの辺の地名は頭に入っており、本を読んでいても明瞭に地理関係を把握できた。
実際、二宮忠八は看護兵として松山連隊に勤務している。
そんなこともあって、この本、私にとって今年のは珠玉の一冊になった。
ところで松山だが、個人的な話だが、私はここが好きになった。
なぜかというと、何もかもゆっくり動いていることがいい。
なにしろ「警察交番」で20分も案内をうけたほどの街である。
つきつめていうと人は少ないことがなによりいい。
生まれ育ちも東京なので、雑踏は怖くはないし嫌いでもない。
でも、人がいない、少ないというのは何とも安心する。
例えば家の近くのクリーク沿いの散歩道をいくと小一時間、まるで人に出会うことなく戻ってくることができる。
ときに、今日は人によく会ったな、と思うことがあるが、それでも数人に過ぎない。
何しろ人がいない。
それがいい。
松山はそうはいかないが、それでも東京よりかはいい。
ド田舎へいけば人などいないよ、というが、それはそうだが、ネはやはり文明人であり、まったく人のいない無人島もどきはダメだろうと思う。
以前に書いたが、息子はドイツに1年の予定で行っている。
落ち着き先はフライブルクという都市。
ご存知ない方も多いでしょう。
実際、私もどこだかわからなかった。
調べてみてそういう都市もあることがわかったほど。
というのは、小さな都市で小学校の社会地図、ならびに中学校のヨーロッパ地図には載っていない。
中学校のヨーロッパ詳細地図になってはじめて現れてくる都市である。
場所はフランス、ドイツ、スイスという三国の境界から最も近いドイツの都市になり、もよりの飛行場はスイスのチーリッヒになる。
人口20万人ほどである。
問題となるのは、この街がなんと道後温泉の松山市と姉妹都市だということである。
これには少々、因縁を感じてしまう。
もちろん、だからといって何か大事があるわけでもない。
ただこの春に、半世紀ぶり(これはサバの読みすぎだが)訪れてのんびりした道後の街であり、つい数日前に読んだ本の主人公の街であり、そして息子の滞在先の姉妹都市でもあるという偶然に少々驚いたということである。
Wikipediaでみてみる。
上はドイツの地図だが、フライブルグはこの左下に位置する。
左側はフランス、下側はスイスになる
● Wikipediaの写真
松山は海に面している。
しかし、フライブルグはアルプスの下になるので海とは無縁である。
ではなぜそんなところと松山は姉妹都市となったのか。
ホームページで見てみる。
『
松山市ホームページ 更新日:2013年4月3日
http://
www.city.matsuyama.ehime.jp/shisei/kokusaikoryu/kokusaikouryu.html
姉妹・友好都市との交流
ドイツ・フライブルク市
〇提携の動機とその経過
本市は松山市政100周年を記念して、昭和36年から友好都市として交流を続けてきたドイツ・フライブルク市と平成元年4月4日に姉妹都市を提携した。
本市とフ市との出会いは、昭和36年に始まる。
市の産業振興を図る本市が、戦後目覚しい復興を遂げた西ドイツの街へ青年の派遣を目指した時に、その青年を快く引き受けてくれたのがフ市であった。
その後、両市は、大学関係者や市民同士の民間レベルでの相互交流、本市助役一行の訪フ市等、地道な交流を続けてきたが、昭和60年のフ市長の来松を機に、両市の友好交流は大きな進展をみせた。
以来、本市中学生や、シルバー海外派遣団のフ市訪問、フ市からの留学生の来松や、両市経済交流代表団の相互訪問、平成6年4月には、市街地の公園内に友好のシンボルとなるフライブルク庭園が完成した。
平成11年5月には姉妹都市提携10周年記念松山代表団がフ市を訪問するとともに、6月にはフ市代表団が来松しベーメ市長の参加を得た「地球環境シンポジウムIN松山」を開催した。
平成12年7月には、友好親善代表団がフ市を訪問し、「文化交流の促進」等について両市の間で合意がなされ、姉妹都市交流をさらに実のある交流へと発展させている。
』
『
松山市ホームページ 更新日:2013年4月1日
http://
www.city.matsuyama.ehime.jp/shisei/kokusaikoryu/fraiburug.html
フライブルク市位置図
★
「森とワインとゴシックの街」フライブルク市★
■市名/Freiburg im Breisgau
■位置/ドイツの南西部。フランス、スイスの国境に近い。
■気候/平地は乾燥して暖かいシュヴァルツヴァルトでは風が強く寒い。
■人口/約23万人
森とワインとゴシックの街、そして
エコポリスとして、注目されるフライブルク市と、交流の輪を広げています。
フライブルク市は、中世文化の遺産を継承しようとする市民の熱意によって築かれた、中世初期の雰囲気が漂う素晴しい街です。
市内には博物館をはじめ、13世紀初頭から3世紀を要して建てられたミュンスター(大聖堂)などの歴史的文化遺産も多く、特に近年は環境重視のまちづくりを進め、エコポリス(環境都市)として世界から注目を集めています。
平成元年4月姉妹都市提携以来、両市は文化・経済・技術交流など多彩な文化を繰り広げています。
平成6年4月には、市街地の公園内に友好のシンボルとなるフライブルク庭園が完成したほか、平成11年6月にはフライブルク市代表団が来松し、ベーメ市長の参加を得た「地球環境シンポジウムinまつやま」が開催されました。
平成17年4月には、フ市から来松した5人の芸術家による作品展や、平成18年4月には本市の芸術家ら5名がフ市で「松山のアート展」として、作品展やワークショップなどを行い、また、平成19年1月にはフライブルク仮面演劇団による松山公演やワークショップを行うなど、芸術交流を中心に、姉妹都市交流をさらに実のある交流へと発展させています。
平成12年7月には,友好親善代表団がフ市を訪問、新たな交流をスタートさせたほか、平成14年11月には、本市の市長がフ市で、また、平成15年10月には、フ市の新市長Dr.ディーター・サロモン氏が本市で、それぞれまちづくりに関する講演会や意見交換を行いました。
平成20年10月には、姉妹都市提携20周年記念松山代表団がフライブルク市を訪問し、記念式典に出席しました。その際に、愛媛FCとフライブルクSCとの「フレンドシップ協定」が締結されました。式典では今後の両市の更なる交流を確認しました。
平成21年4月には、フライブルク市代表団が来松し、Dr.ディーター・サロモン市長が基調講演した「ゼロエミッションまつやま」が開催され、両市の環境施策の紹介がされ、更なる両市の協力を確認しました。他にも、議会・教育・スポーツ・環境分野の視察をしました。
』
息子がどのくらい滞在するのかわからないが、時期が合えば行って見たい気もする。
私はあまり旅行好きではないので、これまで一度もアメリカもヨーロッパも行ったことがない。
もし出かけることになったら、「小生一世一代の海外旅行」となるかも。
【うすっぺらな遺伝子】
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